検査技術の発展:③遺伝子の増幅技術;PCRの発明

ー余暇に生まれたアイデアー

・2001年に、ヒトゲノムの全配列が解明*1されて以来、ヒト遺伝子の解析は、新たな段階に入り、医療上のみならず、健康予防の分野などへ幅広く利用されるようになってきています。これらの解析には、遺伝子DNAを増幅させる技術、略称PCR(Polymerase chain reaction)法が多用されおり、今では、PCR反応の迅速・簡便化、自動化への道が開かれ、応用の幅が広い手法として発展しており、大変重要な技術となっています。

・PCR法は分子生物学的な基礎研究は言うに及ばず、今日、ごく一般的な日常的手法として臨床診断にも使われており、検査薬としてのPCR法では、主に感染症などの病原体(細菌、ウイルス)遺伝子を特定して、感染の有無を確認する感度の高い有効な手段として重要な役割を担っています。 また、遺伝子検査法としては健康予防的な見地から、例えば生活習慣病になる前の遺伝的リスクを調べるなど、その利用は広がっています。特殊なケースでは犯罪捜査上、犯人などの特定にもPCR法は使われ、裁判や新聞報道でDNA鑑定として馴染まれています。今後、その技術的な有用性とともに、一方では、ヒト遺伝子の個人情報として倫理面での課題も大きくなってくるものと考えられています。

・研究者には、いろんなタイプがあると思います。米国のマリス(Kary Banks Mullis)博士は、デートをしながらも、研究課題をいつも思い巡らして考えているような好奇心の旺盛な稀有な科学者で、しかも4度も結婚を経験した艶福家(?)のようです。マリスは1979年秋、ケミストとしてシータス(Cetus)に入社し、DNA合成を担当していました。マウスの殺生よりましな仕事で、しかもサンフランシスコの湾岸エリアは研究にうってつけの場所だと思っていたし、長時間働くことも結構楽しんでいたようです。

・1983年夏、ある金曜日、彼女(ジェニファー)を乗せて夜道をドライブ中に、標的DNA(テンプレート)、オリゴヌクレオチド(プライマー)、ヌクレオシド、およびDNAポリメラーゼを加えて、熱処理を繰り返すことでテンプレート数を増やす方法を思いついたようです。そのころ、隣の研究室で取り組んでいた「ゲノム上の遺伝子変異を検出する測定系の開発」で、技術的な困難さに直面していた折、その解決策としてOR法*2(サンガー法)をベースにしたマリスのアイデアが元になってPCR法が発明されたようです。当時、酵素バテリアアルカリフォスファターゼ(BAP)は熱処理で変性しないと考えられていたので、ゲノムサンプルに含まれる不純物ジデオキシリボ核酸(dNTP)を除去するのにBAP処理が用いられていました。きっかけは、マリスがこの熱処理が不可逆的にBAPを変性させることを知っていたことにあり、そのため内在dNTPを除く別法を考えていたからです。 そこで、この熱処理プロセスを繰り返せば、テンプレート即ちシグナル2倍が増幅することに気が付いたのです。そのアイデアに辿り着くに及んで、マリスはルート128ハイウエイの速度標識46マイル前で車をストップさせて、そのシグナル倍数を計算しました。2の10乗は千、2の20乗は百万、2の30乗は1億となり、ヒトゲノムの核酸塩基対にほぼ匹敵する数となります。 従って、このサイクル数を30回繰り返せば、標的配列を無限に増幅できることになり、その時、EUREKA**!!!と叫んだと述懐しています。これが、現在、ポリメラーゼ連鎖反応と呼ぶPCR法発明の原点のようです。そして、この発見に興奮して「自分が思いつく位なら、既に発表されているはず」と思って、月曜日の朝、図書館で過去の論文を片端から調べましたが、未発表だと判明したのです。

**EUREKA;古代ギリシア語ερίσκω (ヘウリスコー)」「見つける」という動詞の一人称で、直説法能動態。「私は見つけた」「分かったぞ」の意味。

・この1983年末には、マリスは熱サイクリングを繰り返すPCR法は完成したと考えていたのですが、他の研究者を確信させることは出来ませんでした。1984年6月、モントレーにおけるシータス社内の研究発表会でPCRのアイデアを提示しましたが、興味を持ったのはコンサルタント・レーダーバーグ1人のみでした。この後、マリスはオリゴヌクレオチド合成ラボのヘッドになり、同年9月にはVP・ホワイトの指示で本格的にPCRのアイデアを検討することになりました。 11月に、やっとサザーンブロッティングによって増幅産物が分析できました。それは目的の110塩基DNA産物が明瞭に増えており、これが最初に可視化された実験*3となりました。それ以降、最適化の条件が工夫され、やがて標的DNAのみが増幅できるPCR系になったようです。この後、PCR法は、in vitroでの特異的なDNA増幅法として、分子生物学の進展に貢献した素晴らしい技術となっております。それにも関わらず、当時、Natureに投稿して却下されましたが、やがて、1993年、このPCR法の発明によって、マリスはノーベル化学賞を受賞しました。

http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1993/mullis-lecture.html

en.wikipedia.org/wiki/History_of_polymerase_chain_reaction

岡田③-1

コラム岡田4-1

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*1Nature 409, 860-921. 2001、Science 291, 1304-1351. 2001

*2;OR;Oligomer Restriction法

*3;Mullis KB “Process for amplifying nucleic acid sequences.” U.S. Patent 4,683,202. Mullis, KB et al. “Process for amplifying, detecting, and/or-cloning nucleic acid sequences.” U.S. Patent 4,683,195.(出願;1985.3.28、登録;1987.7.28);http://www.patents.com/us-4800159.html

 

OR法;http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1993/mullis-lecture.html

コラム岡田4-2

科学界へのPCR技術の報告

1985年の特許申請*3後、最初、4月にソルトレイクシティのASHG(American Society of Human Genetics)会合に提出し、10月に同僚のSaikiによって発表された。論文発表では、1985年、「オリゴヌクレオチドとDNAポリメラーゼを用いてDNA合成する反応を繰り返すことによって、一定領域の核酸配列を増幅させる」というマリスの思い付きは、Nature へ投稿したが実験結果がないので10月にリジェクトされた。皮肉にもシータス社の同僚研究者により、遺伝性疾患(鎌状赤血球症)の迅速診断法として、PCR法それ自体の応用が、Scienceに投稿*4して受理された。マリスのオリジナル論文は、2年後の1987年にMethods Enzymol.*5に発表された。

熱耐性ポリメラーゼ

しかし、PCR技術は増幅後に高温の熱変性によって一本鎖にする際に、DNAポリメラーゼが失活するという課題を抱えていた。シータス社研究グループは、この欠点の克服に、1988年イエローストーン国立公園の間欠泉バクテリアのDNAポリメラーゼならば、高温下でも働くと考えて、好熱菌から耐熱性のDNAポリメラーゼを精製*6し、現在、広く使われているPCR法として実用化できた。

*4;Saiki, RK. et.al.,( Mullis, KB),”Enzymatic amplification of beta-globin genomic sequences and restriction site analysis for diagnosis of sickle cell anemia.” Science 230:1350–1354,1985.

*5;Mullis, KB & Faloona FA.”Specific synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction.” Methods Enzymol. 155 : 335-50,1987.

*6;Saiki, RK. et.al.,( Mullis, KB),”Primer-directed enzymatic amplification of DNA with a thermostable DNA polymerase.” Science 239: 487–491,1988.

 

<補足>

*注1;PCRと同様の概念は、マリスが発明する7年前、ノールウエイの科学者(H. Gobind Khorana& Kjell Kleppe)により “repair replication“としてJMBに論文発表されていたが、2倍~4倍までの増幅であった。これに対して、マリスの熱サイクリングを繰り返す増幅方法は、迅速かつ対数増幅を可能にした優れた増幅法であった。

*注2;マリスが生化学の博士課程時に、天文学で思いついた”Cosmological Significance of Time Reversa を1968年にNature投稿したが、その思いつきは簡単にNatureに受理された。Nature 218, 663 – 664 (18 May 1968); KARY MULLIS、Department of Biochemistry, University of California, Berkeley. Cosmological Significance of Time Reversa

*注3;シータス社保持のPCR法特許の権利は、1992年エフ・ホフマン・ラ・ロシュ社に買われたが、現在では、その特許権は失効している。